(シカゴを拠点とする独立系ニュース/オピニオン誌In These Timesによるインタビュー。このインタビューが行われた直後、著作権延長の合憲性を問うエルドレッド裁判に最高裁は7-2で合憲との判断を下した。レッシグは原告であるオンライン出版者エリック・エルドレッド他の弁護人を務めていた。)
In These Times:
著書『コモンズ』のなかで、著作権制度を巡る現在の争いは左と右の対立という古典的なものではなく、旧時代の産業と新しいイノベーションの作り手との戦いであると書かれています。政治的に異なる立場のアクティビストたちに共通する利害やビジョンとはどんなものでしょうか?
ローレンス・レッシグ:
両派に共通する目標があると考えていますが、その理由も同じであるとは限りません。
左側の人々は当然、過剰に拡大された知的財産制度がもたらす言論と表現の自由に対する制限について懸念しています。新しいアーティストやメインストリームから外れた表現者たちが作品を作り流通させることは非常に困難になっています。
右側の人々は、商業の文脈でのイノベーションに対する制約を問題とするでしょう。特にそういった制約が全体の利益に反して特定団体を利するために、政府によって課されている場合には。
このように、どちらの陣営にも現在起こっていることに対抗する理由があります。それぞれに動機は異なるとしてもです。
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縮小してゆくパブリック・ドメインとインターネットの私物化という問題は、もっと基本的な問題、食料や住む場所、適切な雇用といった問題で日々苦しんでいる人々、つまり“デジタル格差”の反対側にいる人々にはどのように関わってくるのでしょうか?
レッシグ:
私の見方からすれば、このパブリックドメインとインターネットの問題は重要なものですが、飢餓や戦争、基本的人権といった問題は確かにもっと重要です。
おそらく、私をこの問題に向かわせているのは、人々が物事を学び、創造し、発言してゆくことができる共有の場がもたらす実に根元的な可能性が、特定権益と影響力のある企業による古典的な妨害によって失われているという事実でしょう。
これほど多くの人々が同じ側に立って解決を求めているのですから、われわれはこの問題に取り組んで何かをなすべきです。
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レッシグ教授も設立者の一人であるクリエイティブコモンズはクリエイターたちが作品をパプリック・ドメインに加えることができる“保全プロジェクト”を進めていますね?アーティストや作家、科学者はどんな理由で自分たちが作り出したものを提供するのでしょう。
レッシグ:
われわれの最初の取り組みは、人々が利用する規格やプロトコルを開発したいが、自分自身ではそれを支配したくないという企業に対するものになるでしょう。
基本的なアイデアはこうです。Javaという技術があります。一度Javaでプログラムを書いてしまえば、それをどんなプラットフォームでも走らせることができるという構想でした。プログラミングのコストを低くすることができるので、人々の間にはJavaを利用したいという強い欲求があるわけです。
Javaを発表してクロスプラットフォーム性を約束したとき、サン・マイクロシステムズは典型的なジレンマに直面しました。Javaを単にパプリック・ドメインのもとにリリースすれば、特定の企業がJavaのクロスプラットフォーム性を汚染して、WindowsあるいはMacといった一つのプラットフォームだけが有利になるように拡張してしまうかもしれません。それでサンはJavaを手放すのを恐れたのです。
一方、もしサンが企業としてJavaの著作権などの権利を保持しつづければ、人々が不安に思うことは、そのうちにサンが“Java税”のようなものを強いるのではないかということです。つまり、サンが何らかの時点で…
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…Javaを利用している全員に対して課金し始める?
レッシグ:
ええ、その時点でJavaを使っている全世界から利益を得られるように。この懸念は人々がJavaを利用したがらない理由になります。
これこそわれわれが“保全プロジェクト”のようなもので解決できると考えた状況です。もしわれわれに知的所有権を移譲すれば、適切なライセンスの下で公開することで、誰かがそのコンテンツを汚染するのを防ぐことができます。その上、誰も“Java税”といったものを心配せずに済みます。なぜなら、われわれは非営利団体なので、そういった活動はそもそも法的に許可されていないからです。
それがひとつです。また、自然環境や景観を保存するための土地トラストに出資するのと同じ理由で、パプリック・ドメインを拡大する手助けをしたがっている人々もいます。自社で出版した本のかなりの部分を“創設者の著作権”[合衆国憲法が最初に定めたと同じ14年間で自発的に権利を放棄]のもとに提供しているティム・オライリーのように。あまりにも長い期間が経過すれば著作権はもはや有効に機能しないと考える人々です。その時が来れば、彼らは著作物を他者によって利用可能にしようとするはずです。
われわれが発見しているのは、人々には作品がパプリック・ドメインに、あるいはコモンズに入ることを支持したがる理由が、利他的なものも自分なりの目的によるものも含め様々な理由があるということでした。われわれはただそれを可能にしようとしているのです。われわれは利他的な理由で支援してくれる気前の良い人々を歓迎すると同時に、偉大な成果が必ずしも利他心に基づくとは限らないと現実的に考えてもいます。
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かつてインターネットには、充分な量のフリーなコンテンツを提供すれば、人々がそのコンテンツに関心を持つようになり、それが利益につながるのだという仮定がありました。この考え方はもう信用されなくなったのでしょうか?
レッシグ:
いいえ、それはインターネットが示したとても重要なレッスンだと思います。私はこう説明します。人々がコモンズに対して抱いている典型的な考え方に“共有地の悲劇”、コモンズの悲劇というものがあります。つまり、ある資源をあまりにも多くの人が利用すれば、それは枯渇してしまうというものです。
しかし“共有地の悲劇”は、経済学者が“競合的な財”と呼ぶもの、つまりあなたがそれを使ってしまえば私には使えなくなるという性質のリソースの場合だけ起こるのです。アイデアのように競合的でないリソースでは、私がそれを利用しても、あなたがそのリソースを利用する妨げにはなりません。“共有地の悲劇”ではなく、“共有地の喜劇”とでも呼ぶべきことが起こりうるのです。
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雑誌『Wired』は、あなたがワシントンへの“百万ビット大行進”を呼びかけたと報じていました。それはどんなものになるのでしょう?
レッシグ:
これらの問題については沢山の運動が展開されています。最初は一部のギーク[技術オタク]たちの間から始まり、アートや音楽、映画産業と密接な関わりをもつ人々へ、そしてテクノロジーの発展を強く支持する人々の間へと広まってきました。彼らは皆、インターネットにおける創造とイノベーションの自由を進めてゆくことに強い関心をもっています。
われわれが考えているのは、インターネット上で充分な量の政治的な声を上げてゆくことができれば、政治家たちも注意を払わざるを得なくなるだろうということです。
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“境界線はどこにあるのか”という問題を明らかにするために、敢えて法に触れる可能性も辞さない表現を用いた作品を集めた“イリーガル・アート”展覧会のような公然とした試みは、教授が取り組んでいるような問題に対する助けになるでしょうか、それとも有害でしょうか?
レッシグ:
私はとても有益だと思っていますよ。一般の人々には、知的財産制度が創造的な表現にどう影響を与えるかということについて考えるきっかけさえありません。著作権は疑いなく創造行為を助けるものだと思われています。しかし、著作権の研究者なら誰でも理解していることは、著作権は創造行為を誘発するための重要な一部であると同時に、もし強すぎたり範囲が広すぎたりすれば、根本の部分で創造行為と干渉するものだということです。
特にデジタル技術が一般化した今、著作権法がその技術を利用して創造的活動に対して及ぼす規制がデジタル技術以前と比べはるかに拡大しているという事実は、人々に理解されていないのではないかと思います。
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規制をくい止めて公共のコモンズを確立するために、いま人々が集中して取り組むべき課題はなんでしょう。
レッシグ:
フェアユースの権利を守るという非常に重要な問題がありますが、これは人々がいま集中すべき課題としてとても有益だと思います。
それがどんな形になるのか―フェアユースを守るための法律という形をとるかどうかはまだ分かりませんが、コンテンツへのアクセスとコンテンツを共有できることはますます重要になってくるでしょう。
そして、20世紀の見方をもった人々が、21世紀の創造性を支配することがないようにすべきなのです。